http://blog.goo.ne.jp/madokakip/e/46db457f7640dc5a6a373e550c03c626 版について(keyaki) ホフマン物語は、今回はレヴァイン版だそうですが、下記のような記事を見つ けました。 http://weblogs.baltimoresun.com/entertainment/classicalmusic/2009/12/musi cologist_met_operas_new_ho.html 白 状するとMadokakipさんによんでもらおうと思って、ちゃんと読んでない んですが、音楽学者のMichael Kaye氏が、ヨーロッパの劇場の多くは自分の版 を使っているのに、レヴァインが採用しなかった....ということを言っているの かしら。この記事の下の PSにグリゴーロの名前があるので検索でヒットした んですけど。確かにチューリヒ歌劇場のサイトには、音楽はMichael Kaye und Christophe Keck (2005)のバージョンって明記されています。 ================================================ こっそりボルティモアで反撃 (Madokakip) 2009-12-09 15:47:26 keyakiさん、 このボルティモア・サン紙の記事、面白いですね! ご紹介ありがとうございます。 まず、このケイ氏がメリーランド州の出身なため、地元のボルティモアの新聞 でこっそりと反撃に出ているのがなんともいえません。どうせなら、NYタイム ズに手紙をかけばよかったのに!なんて思ってしまいます。 彼の論点の中心は、ホフマンの、メトの新演出は、オッフェンバックとその作 品について、極めて深刻な誤解を招く危惧がある、ということのようです。 具体的にはそれは演出家のシャーと指揮者のレヴァイン、それからメトのプレ スに向けられていて、 @ シャーへの攻撃 (これはレクチャーの時にもシャーが語っていましたが) メトのプレス・リリースによると、シャーは、”オッフェンバックは、すでにオ ペレッタの作曲家として大きな成功をおさめていながら、さらにきちんとした 作曲家としての認知を得るために、真面目な作品を書こうとしていた。 なぜ、そんなにキャリアの遅い段階で、このような認知が必要だったのだろう? そのことで、自分は、オッフェンバックがユダヤ人で、かつアウトサイダーで あるということが関係しているのではないかと思うようになった。”という発言 をしており、登場人物の自己の曖昧さと分断されたアイデンティティというの が、 シャーの作品観になっていて、さらに、”アーティストなら、誰でも野心とパラ ノイアの両面を持っているはずだ。 オッフェンバックの真の芸術的ジレンマは、この表に見えることと内側にある 状態との間のテンションにあって、それをこの演出で見せたかった。”と言って いる。 この発言を見るだけで、シャー氏がいかに、オッフェンバックについても、ホ フマンについても、わかっていないかがわかる。 非常に重要な参考資料を提供しようと申し出ても、シャー氏やデザイナーは興 味すら示さなかった。 オッフェンバックが”認知”を必要としていた、というのは、非常に誤解を招 く表現だ。 100作品以上のスマッシュ・ヒットを作曲し、ロッシーニに引けをとらないシ ャンゼリゼのモーツァルトとの異名をとり、ワーグナーのユダヤ人芸術家に対 する嫌悪を指して、”未来の作曲家”と皮肉半分冗談半分で呼んだ事実などは、 オッフェンバックについて書かれた伝記の最も古いものを読んでもきちんと記 述されていることである。 (つまり、オッフェンバックが真面目な作曲家として成功したかっったのでは ないか?というのは途方もない論拠であり、また、ユダヤ人であることがアウ トサイダーと感じる理由には必ずしもならないはずだ、ということが言いたい みたいですね。) A レヴァインへの攻撃 また、レヴァイン氏は、スコアの版の問題について、”ここ何年かのうちに明ら かになった大量の資料のおかげで、オーセンティックな、完全に完成されたオ リジナルのスコアがないという事実の前にも、効果的な選択が出来たと思う。” これはとんでもない大嘘、正しくないのもいいところで、一般の人々が彼の言 うことを信じてしまうのではないかと心配だ。さらに、レヴァイン氏がどうし てメトのプレスに、完全な自筆稿の存在を否定したままにさせておくのか、ち っともわからない。現在存在している自筆稿はスケッチ以上のものであり、パ リで初演された時の完全なスコア〜それもジュリエッタの幕の、フィナーレも 含んだ完全なスコアで、それは私の版(ケイ版)に入っているというのに。 それらの自筆稿の多くは、私以前の版の頃にはまだ発見されていなかったもの であるが、完全なオーケストレーションが施されており、レオン・カルヴァロ (劇場のインプレサリオで、初演の際の舞台監督)がジュリエッタの幕を削除 する前に、オペラ・コミークでリハーサルまでされているのである。 私はマエストロ・レヴァインが、ギュンター・シュラーやエリオット・カータ ーによる新作を振る余裕があるのは素晴らしいことと思うが、その一方で、ホ フマンについて再度学ぶことを何年も拒否しているというのはショッキングで すらある。また、我々(ケイとケック)が自らの版の中でつとめた、オッフェ ンバックのこの傑作における業績を正しく評価し経験するということから、メ トの歌手、オケの奏者、そして観客までを遠ざけることになると思うのだが。 この新演出が将来再演される際には、今シーズンには聴かれなかった、真のオ ッフェンバックによる音楽を含む版が使用されるのかもしれない。 マイケル・ケイ PS 三月にはチューリッヒ・オペラがグリゴーロのタイトル・ロール・デビューで ホフマンの新演出を舞台に乗せる予定だ。 そこでは、他の多くのヨーロッパの劇場と同様に、我々の版に基づいた演奏を 予定している。 、、、、とこんな風なことのようです。 自筆稿を持って、それが最もオーセンティックと言えるかどうか、という点が 論点をわけるように思うのですが、 また、ホフマン物語の場合は、上演された時期によっても、構成が違っている のが更にこの論議をややこしいものにしていますよね。 ヴェネチアの幕、レヴァイン版は、かなり細かいところが色々既存の版と違っ ているので、もう単純にこれを足しましたね、とか、あそこを抜きましたね、 ここを変えましたね、と私が簡単に指摘できるレベルのものではないです。 レヴァインの版は必ずしも観客全員に好評なわけではなかったんですが、まあ、 ケイ氏ご本人は自分たちが作った版が一番!という強い信念でいらっしゃるか ら許せないんでしょうね。 最後の部分を読んで、”ふんっ。俺が死ぬまで絶対ないわ、そんなことは。”と 言っているレヴァインが目に浮かびました。 ================================================ 版について (keyaki) 2009-12-10 09:52:42 ありがとうございます。すごく分かり易い訳で感謝感激です。 私も《ホフマン物語》 は、ライモンディが4役をレパートリーにしているので、 いろいろ版があってややこしいというは知っていましたが、ケイ氏のクリティ カルバージョンは知りま せんでした。2003年のザルツブルグ音楽祭の時も、 ジュリエッタ(マイヤー)が、聞いたことのない歌を歌う....ということで話題 になっていたし、指 揮がケント・ナガノ(ケイ版のCDを出している)なので、 ケイ版かと思って調べてみましたが、「ザルツブルグ版」と記載されていました。 ○○版といっても、それを基本にしているというだけで、更に、公演ごとに変 更を加えているので、わけのわからない状態なので、「ザルツブルグ版」とか「レ ヴァイン版」とかがあるということですね。 1984年に自筆稿が発見されて、これをもとにケイ氏が校訂版を作成して、同様 に新校訂版を出版していたケック(ケック版というのもすでに上演されているよ うです)と協力して、2005年にケイとケックの新校訂版《ホフマン物語》を出版 したということなんですね。 ケイ版を全部演奏すると30分くらい長くなるようですので、ケイ版をもとに抜 粋...という上演もあるようです。 チューリヒの公演は、ケイ版ではなく「2005年のケイとケックの校訂版」と明 記していますので、今までのとどう違うのか.....「レヴァイン版」の詳細も Madokakipさんのレポートで明らかになりますし、楽しみです。